伊藤大輔 (映画監督) (Daisuke ITO (a film director))

伊藤大輔(いとう だいすけ、1898年10月12日 - 1981年7月19日)は、大正・昭和期の映画監督、脚本家。
時代劇映画の基礎を作った名監督の一人であり、「時代劇の父」とも呼ばれる。

略歴
1898年(明治31年)、愛媛県宇和島市に中学校教師の息子として生まれる。

1911年(明治44年)、13歳。
松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)に入学。

伊丹万作らと同人雑誌を作り、中村草田男、大宅壮一らと文筆を競った。

1916年(大正5年)、18歳。
松山中学卒業。
父逝去のため進学を諦め、呉海軍工廠に製図工として勤務。

1920年(大正9年)、22歳。
5月、やむなく文通していた小山内薫を頼って上京。
伊丹万作と同居し、2月に創立された松竹キネマ付属の俳優学校(小山内が主宰)に入る。

同年、小山内薫の推薦を受けて、ヘンリー・小谷監督の製作第1作『新生』のシナリオを執筆する。
その後、松竹、帝国キネマで数多くのシナリオを執筆する。

1924年(大正13年)、26歳。
国木田独歩原作の『酒中日記』で監督デビュー。
同年、『剣は裁く』が時代劇第1作となる。

1926年(昭和元年)、28歳。
独立して「伊藤映画研究所」を設立。
『京子と倭文子』、『日輪』三部作を監督するが独立自体は失敗に終わる。

同年、日活撮影所に移り、まだ新人だった大河内傳次郎とコンビを組み、『長恨』、『流転』などの時代劇作品を監督、激しい乱闘シーンやアメリカ・ドイツ・ソ連など外国映画の影響を受けた大胆なカメラワークで注目を浴びる。

1927年(昭和2年)、29歳。
映画史上に残る「金字塔」と称される傑作『忠次旅日記』三部作を発表。
一躍映画界を代表する存在になり、後世に大きな影響を与えた。
この年監督した河部五郎主演の『下郎』も名作に数えられる。

この日活撮影所時代に「監督:伊藤大輔」、「主演:大河内傳次郎」、「撮影:唐沢弘光」の「ゴールデントリオ」が生まれ、サイレント末期の日本映画界をリードする旗手となった。

1928年(昭和3年)、30歳。
『新版大岡政談 (1928年の日活の映画)』では、大河内に隻腕隻眼の怪剣士「丹下左膳」を演じさせた。
スピード感溢れる展開が大人気となり「大河内伝次郎の丹下左膳」の人気を不動のものとする。

1929年(昭和4年)、31歳。
月形龍之介主演で『斬人斬馬剣』(松竹京都)を監督、カット・バックや移動撮影の斬新さで世を驚かす。
また同年、市川右太衛門プロで『一殺多生剣』を監督。

この二作は、当時の社会主義思想の影響を受けた「傾向映画」とされるもので、『一殺多生剣』は内務省の検閲によって、完成フィルムから300フィート余りが削除されている。

1930年(昭和5年)、32歳。
新撰組を描いた『興亡新撰組(前・後史)』、娯楽大作『大岡政談魔像編』を監督。

1931年(昭和6年)、33歳。
リリシズム溢れる恋愛物『御誂次郎吉格子』を監督。

この年、田中絹代主演の『マダムと女房』が(松竹キネマ、五所平之助監督)封切られ、映画界は「トーキー映画」の時代に入っていく。

1932年(昭和7年)、34歳。
同郷の井上正夫を主演に据え、『噫(ああ)無情』全二巻(ヴィクトル・ユーゴー原作)を監督。

この時期、元々極めて奔放な性格で映画会社とトラブルが多かったことに重ねて、伊藤の社会的思想は当局によって弾圧の対象となった。
検閲、言論統制が強まっていく時代の流れのなか、トーキー時代以降は映画作りの意欲が衰えて不振を極め、小津安二郎、溝口健二、山中貞雄らに押されて、目立つ作品を残していない。

同年、村田実、田坂具隆、内田吐夢らとともに日活から独立し、「新映画社」を設立する。

1933年(昭和8年)、35歳。
「新映画社」は解散し、日活に戻る。

1935年(昭和10年)、37歳。
『雪之丞変化』(衣笠貞之助監督)の脚本を執筆。
監督作が不振ななか、シナリオ作家として数々の名作を残す。

1936年(昭和11年)、38歳。
伊丹万作、衣笠貞之助、村田実、牛原虚彦と連名で「日本映画監督協会」を設立。

1942年(昭和17年)、44歳。
大映京都が嵐寛寿郎を迎えた『鞍馬天狗横浜に現る』を監督。
「鞍馬天狗」はアラカンの代表作であるが、大映京都ではこの一本に終わっている。

1943年(昭和18年)、45歳。
片岡千恵蔵主演で『宮本武蔵・二刀流開眼』を監督。
こうした作品で時代劇スタアを育て上げると同時に、時代劇人気を支え、以後年に一本のペースで新作を撮り続ける。

1948年(昭和23年)、50歳。
『王将 (1948年の映画)』(大映京都)を撮り、健在を示した。
同作では殊に阪東妻三郎の名演が光った。

この作品はその後のライフワークとなり、その後1955年(昭和30年)に新東宝で辰巳柳太郎を主演に『王将一代』、1962年(昭和37年)に東映東京で三國連太郎を主演に『王将』と、2度に渡りリメイクしている。

1950年(昭和25年)、52歳。
東横映画で『レ・ミゼラブル あゝ無情(第一部)』を監督。
戦前についでのリメイクを行う。

1951年(昭和26年)、53歳。
松竹30周年記念映画『大江戸五人男』を阪東妻三郎、市川右太衛門ら、オールスターを迎えて製作し、人気を博した。

1958年(昭和33年)、60歳。
大映京都で『弁天小僧』を監督。

1960年(昭和35年)、62歳。
大映京都で『切られ与三郎』を監督。

これらは大映スター市川雷蔵 (8代目)のために撮られた作品で、歌舞伎の様式美を意識した映像で評価された。

また、1965年(昭和40年)、雷蔵主演の「眠狂四郎シリーズ」の『眠狂四郎無頼剣』、1966年(昭和41年)に勝新太郎主演の「座頭市シリーズの『座頭市地獄旅』に脚本を提供、大映の2大シリーズに関わる。

1970年(昭和45年)、72歳。
中村プロダクションで撮った『幕末』が最後の監督作品になった。
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』をベースにし、萬屋錦之介、三船敏郎らの共演で撮った大作だった。

その後、萬屋錦之介の舞台の脚本や演出を手がけた。

非常に移動撮影(レールを敷き、カメラマンとカメラを載せた台車がレール上を移動させて撮影する方法)が好きな監督であり、姓名を捩って「イドウダイスキ(移動大好き)」と渾名された。

ただし今日、伊藤の撮った名作群は、シナリオ・フィルムともにそのほとんどが散逸してしまい、全貌をうかがうことが難しいものとなっている。
ただ、幸いなことに『御誂次郎吉格子』は比較的原型に近い形で残っており、その恐るべき才能の一端をうかがい知ることが出来る。

また近年、関係者の努力により、『長恨』、『忠治旅日記』、『斬人斬馬剣』の一部が発見され、復元作業も行われている。
一般鑑賞の機会も増え、再評価が進んでいる。

生誕の地である、元・結掛児童遊園には、その偉業を讃えて記念碑が建立されている。

[English Translation]